Hi Betty!

今宵、眠る寝台での回想録

「失礼します。」

短いノックの後、彼女は背中で扉を押しながら、僕のいる客室へと足を踏み入れた。
その両手には、皺一つない真っ白な布地が2枚程、抱えられていた。
僕がいるとは思わなかったのか、彼女は一瞬驚いたような顔をしてから、「シーツを交換しに参りました。」と一言告げた。

「好きにしなよ。」

僕が答えると、彼女は抱えていた布地をソファの肘置きに掛けた。
それから、昨晩僕が象女とのつまらない会食を済ませた後、つまらない記憶をリセットするかのように眠ったベッドに向かい、シーツの交換を始めた。
僕は彼女が布地を置いた肘置きのすぐ側に座り、彼女の様子をじっと眺めていた。
けして手際が悪いわけではない。
しかし、てきぱきしているとは言い難い動作だった。
手順云々の前にどこか危ういのだ。
彼女はベッドから剥ぎ取ったシーツを簡単に畳むと、床に放り、新しいシーツを取りに僕が座るソファの前までやってきた。
やっと彼女と目が合ったが、すぐに視線は逸らされた。
彼女はシーツを手に取ると、特に言葉を発することなくベッドへと運んだ。
手に取ったシーツをマットレスの端に宛てがい念入りに、整えていく。
彼女が動く度に、給仕服の裾はひらひらと揺れた。

「…真っ白、ねぇ。」

僕は呟いた。
彼女は振り返り、眉を寄せる。

「白はお気に召しませんか…?」
「…別に。」
「申し訳ございません。」

表情を曇らせ、俯く彼女がどうしようもなく、愛おしく思えた。

「構わないけど。」

僕は立ち上がり、彼女の傍らまで歩み寄った。
彼女の視線は僕の動きを、追っていた。
さぞ、不安そうに。
彼女はこれまで、どれだけの理不尽を目にしてきたのだろう。
女王様は最も、他の来客も、この触れたら壊れてしまいそうに危うい、彼女の表情、仕草を独り占めしていたのだろうか。

「僕だけのものならいいのに。」

彼女の頬、耳元に手を滑らせる。
絹のように、滑らかな肌は上気して、ほんのりと赤みを帯びていた。
潜ませた眉の下の瞳は、僕を視界に留めないよう、横目で客室の壁を見ている。

「私なんかをたぶらかしたところで、クジャ様に利益なんかありません…」
「たぶらかされてるのかい?」

彼女は、小さく息を吐いた。

「…今のは忘れてください。私の自意識が過剰でした。」
「本当にそうかな?」

伏し目がちな横顔に引き込まれるかのように、気づいた時には、彼女の耳元に口を寄せていた。

「彩りがほしい気分なんだ。」
「…?この城にある物なら、お持ちすることはできるかと思います…」

僕は彼女の丸い瞳を見つめる。
彼女の瞳も僕の瞳の奥を見つめている。
そうじゃないかもしれないが、そう感じていたかった。

「じゃあ、ここにいて。」
「え…?」

彼女の瞳の奥が揺れた気がした。

僕は整えられたばかりのシーツに身体を投げ捨てた。
そして、彼女の手を引く。
彼女は、僕の横に倒れ込む。
それを壊れてしまわないように、僕はそっと抱きしめる。
ほんのりと彼女の体温が伝わってくるのが、不思議に感じた。

「#name#、キスがしたい。そう言ったらしてくれるかい?」

しばらく沈黙が流れた。
彼女は視線を泳がせながら考え、ゆっくりと口を開く。
水の中で波長が伝わるような、少しばかり長い時間だった。

「私、クジャ様が考えていることがよくわかりません…。もし、だだそういう気分なだけならばお好きにどうぞ…」

しかし、答えは期待していたものとは違った。
水中から顔を出した時のような現実味があった。
僕は、心のどこかで落胆したのだと思う。
自分でも何を期待していたのかは分からない。
けれど、桃色の艶っぽい唇から、繊細で甘い鈴のような声が紡がれる気がしていたのだ。

「ふぅん。割り切ってるんだね。せめて、嫌がられると思っていたのに。」
「嫌がられた方がいいかのような言い方です…」
「そうかもね。」

僕は彼女のか細い小さな手に自分の手のひらを重ね、指を絡めた。

「#name#、僕は女王陛下専属の侍女を客室として与えられた部屋のベッドで抱きしめてる。すごく変な感じだ。」
「私もこういう状況は初めてです。」

彼女の言葉に、自然と笑い声が漏れた。

「それなら、これからも僕だけだ。約束だよ。」
「クジャ様みたいなことをする人には、早々お会いしないかと思います。」
「もし会ったとしても、断るなり、逃げるなりするんだ。」
「つまり、クジャ様はクジャ様だけが私を抱きしめ、キスができる状況を望んでいるということですか?」

意地悪な返答だった。少し呆れられているのかもしれない。
まるで、僕がバーで店員の女を口説く重たい客みたいに見える。
しかし、実際に言ってることはそういうことだ。

「情緒がないねぇ。そういうことだとしたら、受け入れてくれるのかい?」
「クジャ様のことは嫌いではないです。…でも、少し強引です。」

頬を僅かに膨らませる彼女は、侍女としての顔ではなく、一人の少女としての顔をしているように思えた。

「…ただ、少し考えておきます。」
「へぇ。」
「少なくとも、身の振る舞いについては、見直しが必要かもしれないと思いました。ありがとうございます。」

意図せず礼を言われる僕には、シーツを取り替えていた時の、彼女の危うい雰囲気がどことなく薄くなったように感じられた。

「教訓にされてしまうとはね、困ったものだよ。」
「クジャ様はお綺麗なので、大多数の女性にはそれで通用すると思います。」

針穴から糸が抜けるかのように、するりと僕の腕を解くと、彼女は身を起こした。
ベッドの縁に腰掛けたまま手櫛で髪を整える彼女は、今晩も僕がつまらない記憶をリセットするために眠りにつくであろうベッドから、すぐに立ち上がってしまうのだろう。

今晩は、つまらない記憶、なのだろうか。

明晩になれば、僕はまた、身体のサイズに似つかわしくない慣れ親しんだキングサイズのベッドで、いつも通りに香を焚いて眠るのであろう。

「なら、僕が約束しよう。」

彼女は僕を見下ろす。
僕はゆっくりと起き上がる。

「僕がこんなことをするのは君にだけ。こういうのはどうだい?」

彼女はどうしようもなく困った顔をした。

「それは、浮気する男の常用句です…」

それから、一呼吸おいて彼女はさらに続ける。

「…クジャ様、もしかして気を遣ってくださってるのですか?いつも、私がブラネ様と…その、いろいろあるから…。私、クジャ様とお話するのが楽しいのかもしれないって、今日初めて思いました。…内容は、セクハラっぽいけれど…なんだかお酒の場にいるみたいです。……でも、綺麗だからやっぱり刺激が…、じゃなくて、クジャ様の冗談にどう返していいか、分からないところもあるけれど、嫌なわけではないので、誤解させていたらすみません。いつも気にかけていただいて、ありがとうございます。…クジャ様みたいに接してくださる方は初めてです。」

時にまごまごしながら、時に照れ臭そうに紡がれた彼女の言葉に対して、僕は口を挟みたくなるのを我慢した。
今日初めて楽しいと思った、セクハラっぽい、そして極め付けの冗談。
恐らく悪気はないのだろう。悪気なくここまで盛り込まれることが、人生にあと何回あるのだろうか。

「ねぇ、いや…、楽しかったならよかったね。でも、……ああ、やっぱり我慢できない。」

うまく事を収めようという発想はあった。
だが、無理だった。
気づけば、言葉の方が先に出ていた。

「まずひとつ、ベッドメイキングは中断。理由は、僕がお願いした紅茶とお菓子を用意するため。厨房で姿なんか見なかった、とか言われようものなら適当にしらを切れ。ふたつ、僕は今日の会議に疲れて眠っている。扉には鍵がかかっている。つまり、誰かノックしても気づかない。誰もこの部屋に入ることはできない。分かったかい?これは口実だ。だから、扉の鍵を閉める。」

僕は扉までいつもより広めの歩幅で歩きながら、空気の抜ける風船のように息継ぎの暇もなく、彼女に口実を伝え、客室の鍵を閉めた。
振り返ると、彼女がきょとんとした顔で僕を見つめていた。

「…#name#、おいで。」

僕はソファーに座り、座れと自分の隣をぽんぽんと叩いた。
彼女は頷き、僕の隣に辿々しい足取りで腰掛ける。
そんな彼女をどこにも行かせないと言わんばかりに抱き寄せた。

「クジャ様、私、お気を悪くされるようなことを言ってしまいましたか…?」
「別に。とりあえず、好きって言って。」
「えっと………」
「嫌いではないんだろう?」
「でも………」
「いいから。」

戸惑う彼女の姿は、怒られる仔犬によく似ていた。
我ながら言っていることが無茶苦茶だが、彼女は自分にも責任があると感じているのか、諦めたように桃色の唇を開く。

「………好き、です。」
「誰のことが?」

一瞬、彼女は目を見開くが、数秒、考える素振りを見せて再び声を絞った。

---…クジャ様のことが好きです。

伏目がちな彼女の頬は林檎のように紅かった。

「…人として、ですよ?」

彼女は付け加えるが、そうであるなら、何故そんなに顔を紅くする必要があるのだろう。
尋ねたくなる気持ちを我慢した。
次に言ってもらえなくなりそうな気がしたからだ。

「今はそれで充分だよ。」

今晩はいい気分で眠れそうだった。

「そうだ、これくらいならいいだろう?」

僕は思い出したように、彼女の顔周りの髪を掬い上げ、耳にかける。
そして、こめかみに唇を触れさせた。
彼女の肩が跳ねるのを感じる。

「挨拶みたいなものさ。」
「…生まれてこの方、そんな挨拶をされたことなんてありません。」

恨めしそうに僕を見上げる彼女の頬は紅く染まったままだ。

「じゃあ、変えよう。僕の約束の証だ。」
「さっきは挨拶って言いました。」
「それじゃあ軽すぎるかい?不満なら考え直すよ。そうだねぇ、もっと濃密な方がいいかな?」

彼女はため息をついた。

「さっきので大丈夫です。」

引きつった表情が面白かった僕は、声をあげて笑った。