Hi Betty!

イランイランノキ #1

青年は少女を愛していた。
少女が欲する物を与えようとした。少女に欲されようとした。
青年は少女の世界を手に入れた。
少女の全てが青年になった。
青年は臆病だった。



***



「ねえ、#name#?」

ベッドルームのドアノブにかけた私の手に彼の一回り大きな手がそっと重ねられた。イランイランの香りが仄かに漂う数秒間は催眠術にかけられたかのようにスローモーションで幻惑的だった。

「何?」
「何だと思う?」

彼は天使のように柔らかな表情で微笑む。本当は聞かずとも分かっている。彼の小綺麗で艶やかな天使の皮を被ったこの顔がそうだと言っているのだ。私はこれまでにベッドで、リビングで、時にはキッチンで現在とよく似た妖しげな空気に呑まれ、気付けば彼の腕に抱かれている。催眠術だ。今だって彼の指先は私の指を絡めとり、私を背後の扉へと押しやる。磔にされているかのごとく私の背中はぴたりと木製の扉に密着していた。

「言いたいことは分かった。」
「だと嬉しいよ。」

彼は造作もなく私に頬を寄せた。

「……………」

暫くの間を私の心音だけが繋いでいる。けして何かを待っているつもりはない。しかし、この距離感に何も思わずにいられる程の平静さも持ち合わせてはいなかった。そんな時、私の胸の中はお決まりのように彼にも伝わっている。抜き取られているのだ。私の中核は彼の懐で水晶のように佇んでいて、時々彼はそれに手を這わせ指の腹でトントンと叩く。彼は思い通りに支配しようとはしない。けれど手中には収めている。ゆっくりと眺めながら度々私を揺さぶっては手応えを確かめているのだ。

「いつまで経ってもぎこちないね、#name#。」

彼は水晶を撫でるみたいに私の輪郭を辿った。



ーーー今回も、落ちた。



ランプの油が切れたわけではない。私の瞼が落ちただけ。視界に映るものは何もない。重なる唇の感触と肌の温もりだけが暗闇の中の唯一の頼りだった。



***



クジャはキングサイズのベッドで一つ一つ衣服を脱がせ、甘い台詞を交えながら私の身体を一番大事な部分を残して隅々まで優しく愛撫した。彼が撫で唇を寄せた肌にはまだ軽い痺れと熱が残っていて、もどかしささえ感じられた。彼が私を最後までものにすることは日頃仄めかすわりに多いとは言えなかった。途中で上手く終息され、私だけが置いてけぼりをくらうことも多々あった。彼が何を思っているのかは分からない。飽きるのかもしれないし、端からそんな気などないのかもしれない。その度に私は良いように弄ばれているような感覚を覚えた。ただ、今日はそうではない予感がした。彼の台詞、声調、私へ触れる手つき、様々な情報を捉えて私の直感がそう判断するのだ。

「未だに手を出してはいけないって気が起きるんだ。」

彼は私の背中を抱いたまま肩越しに溢した。“何?”と振り返るように覗き見る私のことは目に留めているのかいないのか、彼は更に続けた。

「壊れてしまうんじゃないか。そういう観念が染み着いてるのかもね。」
「……………どういうこと?」
「なんでもないよ。お待ちかねだろう?」

腿に添えられた彼の手が上昇する。“やっぱりね”、彼は首元で囁き、首筋に唇を這わせた。その合間にも、彼の指先は蜜を絡ませ蕩けるような甘ったるい感覚を私に与え続ける。

「今日のクジャ、なんか変。」
「そうかい?」
「だってやけに優し……っん。」
「物足りないって?」

彼の声には不思議な緊迫感があり、今にも首筋に噛みつかれそうな気さえした。同時に中へと埋められていく指がじわじわと膣壁を押し拡げていく。

「違っ……」
「確かに、たまには滅茶苦茶に犯してみるのも悪くないね。」

私を正面に向かせた彼は“たまには”ともう一度呟き、目線を流したまま肩を竦めた。やはり、今日の彼は変だ。彼は小さく息を吐くと、横幅が広く両端の引き締まった綺麗な唇を私の唇に触れさせた。ゆっくりと深さを増す口付けに同調して膣内も掻き乱されていく。劇薬を流し込まれたみたいに身体の熱が高まっている。気づけば、シーツに上体が倒れ込んでいたことにさえ気が留まらない程、彼に夢中になっていた。

「……クジャ。」
「質問には答えないよ。」

彼はまた水晶を覗いたらしい。交わり合う視線を遮るものは何もなく彼のブルーの瞳と数秒間睨めっこをした。こうしていると冷める気配のない熱が体内を漂っているのがよく分かる。

「無理してる?私、お世辞にもセクシーとは言えないから。」
「そういうことじゃない。」

彼の手が私の前髪を梳いた。

「…………怖いんだ。今でも死神に愛されてる。君を一番苦しめるのは僕だ。あの頃から変わりない。だから…ふと、深まってはいけない気がするんだ。」

彼は躊躇いつつも恐る恐る口を開いた。ゆっくりと彼の瞼が下がり長い睫毛が一直線に整列する。それからほんの一瞬で列はばらけ、淡い虹彩が姿を現した。
彼が私の全て。そうなってはいけないと思っていた筈だった。しかし、いつの間にかにそうなっていた。彼に私が必要だと言われれば抗う理由などなかったのだ。私はずっと彼に私自身を預けてきた。酷く依存的だった。

「結構繊細なんだね。」
「………、君と違ってね。」

彼は面白くなさそうに顔を逸らした。今の言葉はほぼ間違いなく彼の気分を損ねている。私も敢えてそういう言葉を選んだのだと思う。

「また、居なくなる?」
「ならない。」
「なら大丈夫。」
「………#name#。」

彼は私の傍らに寝転び、私の頭を胸に寄せた。

「時々、嫌な夢を見るんだ。内容はその都度違うけど必ず君が消えてしまう。」
「ただの夢よ。」
「そう思えるくらい能天気だったらよかったよ。」
「今も怖い?」
「……ああ。」

当初私は彼には恐れるべきものは何一つないのだと思っていた。裕福で容姿には恵まれ、欲しいものなら何でも手に入る。私にとって彼は完全だった。そのつもりで傍にいたが、次第にそうではないことが分かった。彼は何かに怯えていた。愕然とした何かを常に意識していた。私は彼の頬に触れた。彼は不思議そうに此方を見つめる。私はそんな彼の唇に添えるように自らの唇を重ねた。

「私は居なくならない。絶対に。欲しかったらあげるし、滅茶苦茶にしたっていい。とにかく、あなたの夢みたいにはならない。そうなりたくないもの。」

暫くの間が空いて、やっと彼が呟きを溢した。



ーーー君ってよく、突然大胆になるからびっくりするよ。



「ところで#name#、確認しておきたいことが一つある。すごく大事なことだ。」

彼は身体を起こしながら話題を切り替え、念を押してから更に続けた。

「いいかい、僕の身体は正常に機能してる。いつだってきちんと君を欲してた。ただ少し遠慮が過ぎていたんだ。それだけのことだよ。けして使い物にならないわけじゃない。あと、このことは誰にも言うんじゃないよ。分かったかい?」
「………そんなに大事なことなの、それ?」
「僕の名誉に関わることだ。」

何をそこまで必死になる必要があるのか。男ならではの価値観は時に理解し難い時がある。もちろん逆も然りであるのだろう。呆れ半分に私が“はいはい”と頷けば、彼は何処となく不服そうだったが深く追及はしてこなかった。

「#name#、僕は君で物足りないと感じたことなんて一度もないよ。確かにセクシーさは欠片も持ち合わせていないけれど、全く色気が感じられないかと言われたらそんなことはない。」
「……それって励ましてる?」
「たぶんね。それに滅茶苦茶にされたいとまで言われたら、ねえ。」

彼は口元に指先を宛てて首を傾げてみせた。

「私、されたいとまでは言ってない。」
「どっちだって一緒だよ。#name#、お願いを聞いてくれるかい?」

彼は私の手を導く。

「“お願い”じゃないのは知ってる。」
「なら話が早い。」



ーーー気持ち良くして。



彼の艶っぽい声が耳元で響いた。