Hi Betty!

ドールハウスの君

「…クジャはどうして私を連れてきたの?」

私は尋ねた。先程片付けられたばかりのテーブルを前に、赤みを帯びているであろう瞳を背けることもしないで。
私は尋ねた。握りしめた手が震えている。

***

私は今日も昼食を用意していた。キッチンの窓からは外の日差しが燦々と差し込んでいる。今回初めて入ったのだが、私はこのトレノの屋敷のキッチンを気に入っていた。クジャはトレノでは食事は料理人に任せておけばいいと言うが、特にすることもないので結局、我が儘を言ってキッチンを使わせて貰っている。食材は元々在中している料理人が気を使って調理台の上に準備していてくれていた。
料理には少しばかり自信があった。クジャの隠れ家では食事はいつも私が用意している。城仕えの頃に度々腕利きの料理人に教わった経験が活きているのだろう。その料理人の彼のお陰で紅茶に入れ込むこととなり、製菓作りも覚え、最終的にはブラネ様のティータイム担当にまで仕立て上げられた。それが名誉ある昇格なのかは定かではないが、少なくとも喉をも通らぬ産物が出来上がってしまう心配はない。今回はクジャの食の好みも教わったので、本職の料理人には及ばぬかもしれないが、いつもより上手にできる気がしていた。
私は食材を一通り洗うと、早速下拵えを始めた。
しかし、結論を言うとこの料理がクジャの口に運ばれることはなかった。

***

私は出来上がったばかりの二人分の昼食を両手に持ち、彼のいる部屋へと運ぶ。開きかけた扉に気付いたクジャは私が通り抜けるまで扉を押さえていてくれた。

「君は働きものだね。もしくは、僕のことが大好きすぎるか、だ。」
「……動いてないと落ち着かないの。」

彼は冗談めかして微笑んだ。たったそれだけで小刻みになる心音が煩わしい。至っていつも通りだ。いつも通りに彼と昼食を摂るだけ。何も身構えることなど何一つない。でも、今日はほんの少し…いや、欲なんかは持つべきでない。いつの間にか身体が球体関節人形のようにぎこちない動きをしている。もう別のことを考えよう。
そう、此処はドールハウスか何かできっと私はお人形さんごっこの最中だ。これからボーイフレンドと普遍的なランチタイムを過ごすところで、私はただ手作りのランチを彼に褒めてもらいたいだけ。



ーーーボーイフレンド………?



クジャは球体関節人形のように細く色白な腕を伸ばし、マホガニー製のテーブルに鮮やかな盛り付けの施された白い皿を添えようとする私の頬に手を触れた。

「でも#name#、落ち着かないだけと言うわりにはしっかりと僕の好物を調べてる。」

私を見つめるブルーの瞳の傍らで、何か白いものがひっくり返るのが目に入った。それは大きな音を立て、床に破片となって散りばめられた。実に鮮烈な色合いだった。



「……ごめんなさいっ。」

床の破片へと手を伸ばす私の手首が掴まれる。

「危ないから、触るな。」

見上げた彼の表情は怒っているわけでも、呆れているわけでもなく、ほんのりと心配の色さえ含まれていた。

「驚かせて悪かったね。怪我はしてないかい?」
「私は大丈夫。……クジャは?」
「大丈夫だよ。」

アレクサンドリア城でこんなに優しい扱いを受けたことがあっただろうか。もしあったとしてもあまりに昔で思い出せやしないだろう。今だって垣間見えるかもしれない怒気の色に怯えている。今回が初めてじゃないのだ。そして、以前はこれが発端で居場所を失った。大事じゃないのは分かっている。けれど脳裏に焼き付いたあの光景は自然と私を動揺させた。



ーーー役に立てなくてごめんなさい。



***

「残念だったよ。ポワレにテリーヌにマリネ、フレンチは昔から好きなんだ。だから、君が運んでくるのを見て嬉しかった。今度また作ってくれよ。君は料理が上手だから楽しみだ。」

片付けられたばかりのテーブルでクジャと私は料理人によって作り直された昼食を食べ終えたところだった。三人掛けのソファで私の隣に腰掛けている彼は、先程の事件に気を悪くするどころか、終始気分が良さそうに他愛のない話を私に振っていた。
彼が私を責め立てたことは出会ってから一度もない。いつだって彼は謝る私の頭を事も無げに撫で、少しばかりからかうと悪戯に微笑んでみせた。怒られることには慣れている。けれど、優しくされることには驚くほど不慣れだった。この罪悪感は何処へ逃がせばいいのだろう。いっそ、怒ってくれた方がいいとさえ思えてくる私は抜け落ちたネジに気付かぬまま、此処まで来てしまったのかもしれない。

「…クジャはどうして私を連れてきたの?………どうして怒らないの?」

目頭が熱くなる。手も震えている。ずっと聞けなかった。何故か分からないけれど、知るのが怖かった。
クジャの視線はちらりと私を捉えるとすぐに遠くへ行ってしまった。まるで愛しい思い出の中を旅しているかのように、この部屋に彼の目線を辿って行きつく先は存在しなかった。

「どうしてかな。思いつく言葉は全部真理じゃない気がするよ。ただ、君を手中に収めたいと僕の中の何かが訴えかけたんだ。だからそれに従った。…さっきのこと、気にしてるのかい?」

彼がすぐに帰ってきてくれたことに秘かに安心を覚えた。流された瞳は確かに私を見据えている。

「……少なくともブラネ様なら手を上げるわ。」
「だろうね。でも今のは僕にも原因がある。って言っても君は納得してくれなさそうだね。じゃあこうしよう。#name#、僕のお願い事を聞いてくれるかい?」
「…何をすればいいの?」

彼は口元に手を当ててさぞ愉快そうに頭部を傾けた。

「キスをして。僕が満足するまで。」

数秒間、時が止まったようだった。繰り返される瞬きによって、視界がフリッカー現象を起こしている。しばらくしてようやく彼の言葉が理解できた。

「そんなの、………いつもしてる。」
「いつもしてるなら問題ないだろう?」
「でも………」

返す言葉は見つからなかった。
少しの間戸惑った後、私は意を決して彼の首に腕を回した。色白な肌に胡粉と油性絵具で塗られた無機質な冷たさはなく、確かに血が通い体温を持った柔らな質感だった。彼の温度を確かめるかのように首筋を辿り、頸骨を両手で包み込むと、視線を彼の淡い唇へと落とした。
溶暗。そして、彼に触れる。
ゆっくりと瞼を開ければ、惹かれ合うように視線が交わった。

「もっとだ。」

ドールハウスの君はご満足じゃないらしい。再び重なった唇は蕩けるようにお互いの感触を分かち合った。

「私、クジャのものになりたい。」

クジャは私の身体にそっと体重を乗せた。倒れ込んだ背中がソファのシートクッションに埋められる。

「#name#、なんだか気がおかしくなってしまいそうだ。」

彼は困ったように額に手を当てた。